板倉宿のおこり
板倉宿の誕生は、400年前実相寺の遷寺に始まったと言っても過言ではありません。二代目将軍秀忠公が、伊奈良沼に白鳥狩りに来るために、当地の住民であった百姓18戸と実相寺が西ヶ原という所に移転を余儀なくされた。
実相寺は、将軍が宿泊所用に作られた御殿用地に、その他の農民たちは古河と館林を結ぶ街道筋に、それぞれ間口16間の敷地を与えられた。広大な敷地を与えられたこの地の農民を「16間百姓」と呼ぶようになったという。
農地を失った18戸農民は各々の得意な面を活かし商売を始めるようになった。これが「板倉宿」の始まりである。
水害の常襲地帯であったこの地方では、米は三年に一度しか収穫できなかった。しかし、池沼に囲まれたこの地方の農民は沼からの贈り物に恵まれていた。魚、貝、野鳥の卵など、春夏秋冬自然からの贈り物は十分すぎる程の豊かさであった。
江戸時代末期にはボテ売り20人ほど抱えた魚の卸問屋が8軒もあった事が記録に残されている。日銭が毎日入る為にそれを狙って博打打がやってきて、一夜にして全財産を無くした人もいたと記録に残っている。水に関わる信仰や稲荷庚申信仰など、信仰に厚いのは自然の恵みによる土地柄なのかもしれない。