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実相寺遷寺の由来と時代背景

慶長14年(1609年)徳川2代将軍秀忠公による伊奈良沼の白鳥鉄砲狩りの為、沼のほとりにある実相寺外農家18軒が移転した。これより遡る事11年、慶長3年あの栄華を極めた豊臣秀吉が五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)に秀頼を託し死去。秀吉の願いとは裏腹に、死去して2年後の慶長5年に関ヶ原の役起こり、東軍(徳川方)は西軍(石田光成方・実質は秀頼方)を破る。
慶長8年(1603年)2月、徳川家康征夷大将軍に補任せられ、安土桃山時代から江戸時代となる。同年7月に家康の孫娘、千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ。家康は、将軍と言えまだまだ豊臣の力を侮る事が出来なかった。慶長10年(1605年)将軍職を秀忠に譲るも実権は家康が握っていた。
秀頼は家康のすすめもあり、実相寺遷寺と同年に方広寺大仏殿の再興を始める。これが後の「大坂の陣」が起こる引き金になる。また、その他多数の寺院復興のために、莫大な資金をつぎこむ事になる。徳川の世を安泰にするために豊臣の力を削ぐあらゆる手段を講ずるのである。
慶長16年(1611年)家康は二条城で秀頼と会見。ここで名実ともに主従が逆転する。三年後には方広寺鐘銘事件が起こる。秀頼が方広寺に作った梵鐘に国家の安寧を祈る文「国家安康」の文言(家康の名前を分断する)に怒り、これを機に「大坂冬の陣」(1614年)が勃発するが程なく和議が成立。大阪城の外堀だけを埋める約束が内堀まで埋めてしまった。大阪城は丸裸同然となり、翌年「大坂夏の陣」が起こり、間もなく大阪城は陥落し、秀頼・淀君は自刃し、豊臣家は滅亡するのである。
元和2年(1616年)には家康が死去。翌年、東照大権現の神号を受け、元和3年に日光東照宮が造営され、久能山より改装された。
以上のごとく戦乱の世に徳川2代将軍による白鳥の鉄砲狩りは、単なる遊興ではなく軍事演習なのである。
このような時代に実相寺外農家18軒は、強制的に現在地に移転させられ、用意万端整えるも白鳥狩りは行われず、400年以上経過し、現在を迎えている。

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