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真言宗とは 歴史 密教の祖師 弘法大師 興教大師覚鑁 専誉僧正

真言宗と中興の祖「興教大師覚鑁」

興教大師覚鑁
興教大師覚鑁 

弘法大師が入定(にゅうじょう)されてから約300年後、高野山が活力を失いつつある時、その状況を憂い、弘法大師の教えを再興するために様々な改革をしたのが、興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)(1095-1143)です。
興教大師は嘉保(かほう)2年(1095)6月17日、現在の佐賀県鹿島市に生まれました。16歳で得度(お坊さんになること)した興教大師は、やがて高野山に上り、大治(だいじ)5年(1126)、弘法大師の教えを学び、議論する学問所、伝法院(でんぼういん)を創建されました。こうして高野山は、多くの学匠の輩出とともに、昔の活気を取り戻していきます。 しかし、長承(ちょうしょう)3年(1134)、興教大師が高野山金剛峯寺の座主になると、このような興教大師の改革を良く思わない一部の僧侶の激しい反対にあい騒動が起こるようになります。やがてこの争いは大きくなり、ついに興教大師は座主を降り、保延(ほうえん)6年(1140)、かつて寄進を受けた地、根来山(和歌山県)に移られてしまいます。
その後、根来山の整備をすすめますが、根来に移ったその3年後、康治(こうじ)2年(1143)12月12日、49歳で入滅されたのでした。
興教大師覚鑁上人は、弘法大師の教えを再興するとともに、学徒を養成し、後に「新義」といわれる真言宗の教学を確立しました。このため、真言宗中興の祖とお呼びします。


根来山隠棲と入寂

新義真言宗総本山根来寺

当時、我が国の仏教界はきわめて腐敗堕落しており、また東寺側の憤激、高野山内保守派の反発、嫉妬等が覚鑁の一身に集まりました。 そこで長承4年(1135)3月21日には両座主を辞任、密厳院に隠棲して無言三昧の行に入られました。これは保延5年(1139)4月2日までの4年間、1446日に及ぶ行でした。
この間の心境が『密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん)』に著わされています。これによると僧侶としての反省と、「我皆相代わってことごとく懺悔し奉る」という代受苦の精神こそが、覚鑁の一大誓願であり、修行の根幹であったことが理解されます。
保延5年(1139)11月5日、金剛峯寺と大伝法院の所領境界の争いから反対派の不満が爆発、凶刃を逃れて紀州根来山に隠退され、学問の研究と弟子の指導に専念されたのです。 ここで覚鑁の代表的著作『五輪九字明秘密釈(ごりんくじみょうひみつしゃく)』が著されました。これは当時流行していた他力往生の浄土思想に対して、密教の本質と、密教の阿弥陀観を表明し、加えるに五輪曼荼羅によって、即身に往生をとげることを論証されたものです。 さらに覚鑁は「凡夫は差別的に考えるから、弥陀の念仏一門に固執するけれども、仏の世界は平等であり、曼荼羅の世界であるから、一門の法さえ成就すれば、おのずから普門の万徳が体得される」という、いわゆる弥陀即大日の理論を確立されるのです。その後、覚鑁を慕う学徒は全国より集まり、根来は学山として栄えました。
康治2年(1143)7月、風邪で病床につかれた覚鑁は、遂に12月12日円明寺にて、坐禅の姿をとり、衣の中で秘印を結び、口に真言を唱えながら、眠るが如く往生されたといわれています。49歳の若さでした。
元禄3年(1690)12月26日、ときの東山天皇から興教大師の諡号を賜わりました。覚鑁がご遷化されてから547年目のことです。
興教大師以前の高野山や東寺を中心とする流れに対して興教大師以降の根来山を中心とした流れを新義真言宗といいます。 この新義真言宗はやがて大和長谷寺を中心とした豊山派と、京都の智積院を中心とした智山派とに分かれるのです。


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